会期:1997年10月24日(金)〜11月16日(日)
    (AM10:00〜PM7:00 最終日はPM5:00まで)
会場:神戸アートビレッジセンター
    (1F/エントランス、KAVCギャラリー B1/KAVCシアター)

 前回96年と同じように、また、継続して答えを出していくことの大切さを感じて、若い世代の作品発表の場所にしていきたいと考えています。近年、更に個人主義的な考えが広まり、さまざまな作品が乱立している状況だと考えられます。その中で、それぞれの作者のリアリティーを感じ取り、今を考えていく場としての展覧会を意識したいと思います。彼等にとって何故、美術が必要なのかを探る事はたいへん重要な事だと思います。その向こう側にある考えやメッセージが社会にとって大切なものになると確信しています。また、そしてさらに今、現在のここより続く明日のことを考えたいと思います。
 いささか慢性的ではありますが、美術大学の教室やまた町中のギャラリーにおいても、美術の危機的な状況を感じます。もう人々の関心の対象とならないで、社会的に美術が必要とされていないのではないかと案じます。
 美術大学の現場において、増大する入学者数とは反比例して、学生の気持ちの中に作家をめざすという気持ちはごく少数の一部を除いては無いことが挙げられます。関西地域だけでもで毎年5000名近くも美術系卒業生を送り出しているのに一向に活況を示してこないのは何故でしょうか。
 その理由としては、現代美術が専門化して閉鎖的に、アカデミックに形骸化して、純粋でリアルな若者の創作の動機をねじ曲げていること。また、現実的に作家になることが職業として収入を得られる糧と成りえない事が挙げられるでしょう。学生数の増加により、教員が学生の意見を聞くことができず、旧態依然なカリキュラムのままで授業が続けられているからでしょうか。それらが弊害となって、作り手や作家になることに若い世代が白けたり、焦燥感を感じているとは言えないでしょうか。
 美術は「判る人に判ってもらえればよい」といった、閉ざされた世界にあって、更にはその中で形式化し、スタイルが中心に取り上げられてきています。また、それぞれの作品の中にある内容は、美大の授業の中でも問われていません。むしろそれらを避けて通 り、技術・方法などが中心であり、学生個々の問題を取り上げて話されることは稀であります。美術は、普遍的で妥当とされるものと個々の特殊性の間を埋めるものでなければならないと思いますが、その一方で、その間に気難しい仲介人のように存在していると思われます。
 大学本来の伝統的・保守的な目的は、専門的なことを取り上げて求心的に研究を積み上げていくことであり、それは過去の作品を研究解釈して評価し、歴史を作っていく事でもあります。しかし一方では、若い人々にとって、美術は過去の物語ではなく「今、生きていること」を実感して自己表現する手段でもあり、それらは相反しています。私自身、授業の中で表現の方法や内容についての考察も行いますが、そこに「作家」という主観的で見勝手な立場や物の見方が入ってくると、さらに複雑になって取り止め様がなくなるのでここではとりあげません。
 つまり大学では純粋に美術の「美」の部分だけにこだわっていこうとし、そこでは各自の多種多様なリアリティーとは無縁のものと化します。生まれてくる「今という時代」の状況認識と、美術における全体としての「歴史的な流れ」がお互いを侵害することなく、一方は活発に、そして他方は厳粛に存在し続ければ良いのではないでしょうか。
 しかし、そういった悲観的な状況のなかでも、時折、楽観的に考えられる材料にめぐり会えることもあります。  それは今までのものとは異なる「作り手と鑑賞者との関係」を見い出したときで、その広がり方は独自なものであり、また繋がる力にも強いものがあると考えられます。それらは自己を題材にしたもので、説得力に富んでいて、同じ様な境遇うにある人の感動を強く誘うのです。しかし、それらは特殊な悩みなどをもつ少数派の社会との関係のことと考えられ例外的に扱われてきましたが、今、その見直しをするべき時がきたと考えられます。
 それは、個々が周囲との関係において、大きな枠の中に無理やり押し込められていた時代から、誰でもが表現者と成りえる現代において、作り手各々が例外的な少数派の立場をとるという事であります。若い作家各々が独立した個人で、その個人が多様に存在しているということになるのでしょう。
 では、個人が成り立っている要素とは何でしょうか。「自分は誰なのか」「過去に刷り込まれた倫理観等によって自分は存在するのか」という疑問をもう一度考え直す必要があります。また、作品につけられる「美しい。正しい。良い。」といった判断基準はその時代の社会的な状況と大きくかかわってきたと思われます。
 近年の現代美術では、個人主義が尊重される様になり、それまで社会から排斥されてきた様々な少数派の人々にも光があてられ、政治的メッセージを主題にした作品発表も見られるようになってきました。
 しかし、フェミニズムやセクシャリズムに関わる作品や非差別的な立場の人々をテーマにした作品に含まれるそれぞれの問題を、美術の中に持ち込まれたとき、それを観る側はどのように鑑賞して理解すれば良いのでしょうか。こういったケースでは「社会的に有効な美術とは何か」「美的な判断が倫理観(モラル)とどう結び付いていくのか」という疑問に突き当たり、美的判断の基準が揺らいでいるのは事実であります。
 しかしながら、今まで触れることを避けてきた問題を今から見つめ直さなければならないと感じます。そこで必要とされるものは他者への想像力であり、「ある他人」の状況に対して感覚的な理解のもつ強さを持って、どこまで思いをいたらせる事ができるかという課題があります。
 絵画から消えた自己表出。近代以降、絵画は自己の投影されたものであったはずです。 しかし、20世紀現代美術があまりに素晴しいものに見えていて、あまりにも概念を愛し過ぎてはいなかったでしょうか。そして現在、その確信がふと「これは騙されていたんじゃないか。」と思え、また大きな流れの後の抗ショック状態に入った様にも思います。あるいは芸術から自己が消えてしまったのでしょうか。
 ここでは敢えて、正面から自分を見据えることのできる人を強調しても良いと思います。例えば、自分が「どのような顔を、どのような表情をしているのか」を見ることは大切だと思います。
 この展覧会が一つの契機になって「あるかも知れない新しい感覚や考え方」が見い出されて、それぞれの制作がより活発になることを期待いたします。

池垣タダヒコ 
 


・押元良全
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