会期:1998年10月24日(土)〜11月23日(祝・月)
(AM10:00〜PM7:00 最終日はPM5:00まで)
会場:神戸アートビレッジセンター
(1F/エントランス、KAVCギャラリー B1/KAVCシアター)
映像考/・・・・
初めてパリに旅行したときの夜、地下鉄に乗った。その地下鉄はある途中区間、地上に上がったので私はパリの夜の町並みを眺めることができた。すると、突如、建物と建物の間に光り輝く、異様な大きな物体が私の視線に飛び込んできた。私は一体何を視ているのかわからず、自分の意味体系の中にそれを収めようと懸命にもがきながらも、あまりの美しさに呆然とし、震える程の驚きを覚えた。それは光の塊として出現し、私の網膜に張り付き、それと私の空間的な距離が喪失されている感じだった。しかしその塊はすぐに建物の陰に隠れて見えなくなり、我に返った私はそれがエッフェル塔であったことをその直後に察知したのだった。後日、昼、夜のエッフェル塔を見に出かけたのだが、あの驚きは全くなく、まさに絵葉書に映るエッフェル塔を確認しているのに過ぎないように思えた。
私はここで何もエッフェル塔に思いを馳せているのでなく、あの異様な美しさの事態の絶対性を問題にしたいだけだ。また、これはエッフェル塔のみの事態でなく、そして私の特権的体験でもない。(決して!)私たちの日常の中で、私たちの構造化された世界の中でこの事態は不意に現れる。つまり、構造化され、常に意味体系の中で世界を選択捨象している私たちの「眼差し」を不意に逸れてしまう事態なのだ。注意せねばならないのはそれはオカルト的な「あの世」に通
じるものでなく、旅行気分も手伝ってのロマンティックな世界でもない。その事態は出来事の束として現前し、非人間的なただ単純に出現する世界の「残酷さ」そのものであり、意味も無意味もない唯物的な世界なのだ。私たちが依って立つ体系が崩れたとき、この事態は現れ、そして私たちの意味や、価値が宙づりになった状態を生きることとなる。繰り返すが、あの光の塊は私の特権的な体験では決してない。誤解を恐れず書けば、それは映像的体験なのである。
近代以降現在、大量のイメージが流通し、私たちはそれに囲まれて生きている。更に流通
するイメージによって私たちは自分の世界を構築している。〔行ったこともない、例えば、南極のことを容易に思い描ける事態を考えればよい・・・・。)私たちが表現することは実はそのイメージに強く関与し、その影響を免れることはできない。例えば「富士山」を描くとき、私たちはいかに絵葉書、漫画、絵画等々の影響なしに自由な「富士山」を描くことができるか。私固有の「富士山」と言い切れるのか。描けば、描くほどに不確かになり、最後には果
たして自分自身が描いているのかどうか事態が怪しくなってくる。私が思い描いている「富士山」とあなたの「富士山」とどれだけ違うか。そして更にはあなたが私であって良いし、私があなたであっても良いのではないかという構造的存在性の露呈を見ることとなる。大量
に流通する情報で編まれた存在、自分の独自性など実はどこにもなく、ただ、既成の情報、イメージを消費し、再生産しているだけの自分の存在性がここで明確化されてしまうのである。これが私たちの表現の現場であろう。「個性」や「完成」という言葉が白々しさを帯び始め、ある権力構造の磁場において、自分が作らされていること、考えさせられているこつに気づいてしまうのだ。しかし私たちは自分が大海の永遠に繰り返される波の飛沫の一滴という存在性を受け入れがたいために「個性」という概念によって、自らの存在を主体化させ、絶対化させようとしてきた。世界は「概念」という白日の下に照らされ、未だ知られざる世界の闇はいずれ私たちの元に回収され得るという確信の元に私たちは不安なく生活できると考えてきた。それは私たちの日常であり、国家、民族、文化、歴史、資本主義、性別
等々、様々なイデオロギーにより、自己を規定し、私たちは波の飛沫の一滴でしかない存在性を覆い、そして狂気を避けてきたのだ。全ての答えがあらかじめ決められていて、そこに問いを捏造し、回答していくというワイドショーの司会者とコメンテイターとの会話のように暗黙の了解を前提とした表現が繰り返され、私たちが依り立つ概念体系を安定化させ、増強していくこととなっていく。そして私たちが「視る」こともこの体系の中での答えの確認でしかないのである。つまり自身が単なる構造的な存在でしかないということが露呈されるのが表現の現場であり、その存在性を覆ってしまうこと、体系を安定化させ、増強させていくことはその現場を引き受けていないことになる。世界に流通
し消費される絵葉書としてのエッフェル塔を再生産し、確認するのでなく、それを裏切るような出来事としてのエッフェル塔にこそに私たちは鋭敏でなければならない。出来事の束としての唯物的な世界が現前することに対して如何に態度表明するかに私たちの倫理が問われているのである。(しかしポストモダニズムの試みがこの唯物的場世界を前に無意味もニヒリズムも最初からなく、そこを如何に肯定し、力動の場所に変換するかにあったとしても、それが世代的な趣味性にすり替えられ、ナイーブな私を保全するという結末ではお粗末すぎる。)
ここで映像について考えることとは現代のテクノロジーの最先端による表現を考えることではなく、私たちの「眼差し」を如何に逸れていき、世界とそこに関わる「自己」との臨界点に各人の表現を如何に持続しうるかが問題になるだけだ。決して映像が現代美術の最前線の表現であるとは私は考えていない。あの「エッフェル塔」と名付けられる以前の光の塊が映像的体験をもたらし、それをエッフェル塔として回収させずに、如何に光の塊として持続させ得るかが私たちの戦略とし、表現として考えられねばならないのである。
カメラはシャッターを押すだけで世界を無選択に全てを等質に写してしまう。既成のイメージが刷り込まれ、ある体系の中でしか世界を認識できない私たちにとって、映像の本性はそこを逸れる世界を提示し、私たちに認識のズレをもたらす可能性を持っている。カメラは人間の意図、感情とは全く無関係なところで、内在的な世界をそのまま捉える「奇跡のメディア」なのである。しかし、実際は私たちの周りにある映像は認識にズレをもたらすほどの力を持っていない。それは既成のイメージに合うように撮られ続けていて、「眼差し」の選択捨象がカメラに担わされ、カメラの目は私たちの目の代用とさせられているからなのだ。そして被写
体の意味内容のみが問題とされ、私たちの意味の体系の中で消費され過ぎていているのだ。あの「エッフェル塔」と名付けられる以前の光の塊は「魅惑のパリ・・・」等々の物語に回収され、ロマンティックな光の塔となってしまうこととなる。
何かを選び、世界を順位付けすることにより、私たちは「視る」。ここから私たちは容易に逸れることはできない故に映像性に対しての意識的な態度が必要となってくる。流通
し消費されてゆく映像でなく、もう一つの側面として、「何かが映ってしまう」という様態としての映像をどう捉えていくかである。そこでは倫理的な映像術が発明されねばならないだろう。光、色彩
、時間、形象イメージといった映像を構成する一つ一つのエレメントが如実に現れる映像術が必要となる。それは主体のイメージを全面
的に投射することはあってはならないのだが、私たちは前述した通り、意味の体系でしか生きていけないし、関与せざるを得ない。求められることは表現の倫理であり、それを考えることは世界に対面
する「自己」をどう発明するかに関わる。永遠に繰り返される波の飛沫としての存在性から、2度と同じ飛沫になり得ないと言う生へと、無限性から一度限りの有限性へとネガからポジへと反転する最中で「自己」は発明されねばならないのだ。絶望を前にして、意味の体系にすがるのでなく、またニヒリズムに陥るのでもない「自己」こし、世界との臨界点を生きる可能性を持つ。カメラアングル、構成、現像等々の各手続きに「自己」の関与を通
して、如何に世界との臨界点を持続し得るかを探られねばならないのだ。私たちの目の代用としてのカメラアングルでなく、誰のものでもない視線へと。主体的イメージに統御された色彩
でなく、光の輝きとしての色彩へと。造形的構成でなく、ノイズを含んだ野放図な構成へと・・・・・。ここにおいて映像術は考えられねばならない。
映像の可能性は私にとっては、ただ単純に映ってしまうという事態のみである。その一点においてのみ、繰り返される表象空間から逸れ、世界との対面
を、そして自身の生を思考できると考えている。全ては相対化され、絶対的に信じるものもなく、日常の退屈さが繰り返される中、人生のささやかな目的を敢えて持つことで退屈さを曖昧にやり過ごすのでなく、また逆にニヒリスティックに厭世的になるのでなく、そこを真に受け止め、如何に生き抜けるかが問題となってくるのだ。あの光り輝く物体が「私」の肉体を震え上がらせたようにそのイメージの現前にこそ、絶対性なき絶対性があると「私」は信じる。カメラの非中枢性。エッフェル塔がエッフェル塔でなくなってしまう瞬間。何かが映ってしまうという映像そのもの事態。映像を手懐けず、映像に肉体を開くこと。絶望は謳歌されねばならない。
神戸アートアニュアル’98主任実行委員 大島成己
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