会期:1999年10月27日(水)〜11月15日(月)
入場無料 (10:00〜19:00 最終日は17:00まで 11/2.9火曜日休館)
会場:屋外、1F/エントランス、KAVCギャラリー B1/KAVCシアター他

 関西における新人/若手作家の登竜門である「神戸アートアニュアル」。1999年は8名を選出しました。選考者として念頭にあったのは、美術の仕事とは個人から社会に向けて発せられるという、あたりまえのことでした。個をきわめることで、芸術は他のもろもろの人間活動に対する独自性を示せますが、しかし、個に埋没してはならないこともまた真理なのです。
 その後、展覧会の具体化を目指し、作家たちと議論を重ねる中で、「私フ 」という基軸を見つけだしました。多義的な表現ですが、今日の不分明な状況がうまく写 し取られています。
 個と対峙するはずの他者や社会、世界は空のままで、特定されず、茫漠としています。誰に対して表現活動を行えばよいかも明確になりません。同時に、「私」自身の不安定さもうかがわれます。とりあえず、からだと脳を持ち、動き、思考できる「自分」であるのは間違いないが、どこまでが「私」固有の、独自な存在かは決定できないのです。この点には最近人々の関心を集めている自分探しも、関係していると思われます。あいまいであっても、いやむしろ、あいまいであるからこそ、作家たちは芸術を通 してのコミュニケーションを痛切に希求し、試行錯誤を繰り返しているのです。
 8名の作家と作品を簡単に概観します。
 津上みゆきが様々な絵画の技法を駆使しつつ、描こうとするものは、個人的な記憶につながる風景です。私を軸として、自分を含めた世界の全てを横断・走査しながら、しかとは断定できず、意識の下層に眠っているものを探究していこうとしています。
 トミアサエは、拾得した木切れや日常品を、むしろ恣意的にイメージされたどこにもないエスニックなものへと構成します。彼女は「森」を目指すと語ってますが、その森は制度としての美術が既に立ち去ってしまった廃虚であり、そこでは頼りになるのは結局自らのほかにはありません。
 肖像画を連作しているのが片岡健二です。モデルを選び、その人物を知ることから作業は始まっています。とはいえ、求めているのは人間ではなく、モデルと作家との関係である点で、作家の手わざや材質感を極力排除する描き方となっています。ここでもまた、「私フ 」の1つの様相が現れているといえます。
 国谷隆志のネオン管、フレーム、ガラス瓶、言葉などを構成したインスタレーションでは、諸要素を結びつけているのが、作家本人が世界との向かいあいの中で得た、「感じる」体験です。感じる強さの度合いが作品の成立に不可分なものとなっていて、美術史を勉強すれば得られるような、おなじみの造形要素の引用は、二次的でしかないでしょう。
 ゴキブリ捕り器を積み上げた高層住宅、箱の中に居座り、内をのぞいた観客の写 真撮影、漫画のキャラクターの拡大など、小川しゅん一の仕事は特定のかたちに収束しません。観客からの「反応」さえあればよいのかもしれませんが、動機は世界と自己との安定した関係を打ち破り、倒錯した状況を出現させたいとする願望なのです。
 泉依里の版画では、身の回りの事物、たとえば、コンセントや机の足などが人間の四肢に見立てられ、置き換わっています。赤ん坊が何でも口に入れることから世界認識を始めるような具合に、身体のものへの同一化を通 して、ものと自分との交流が試みられています。
 同じようなことは、赤ちゃんのおもちゃに関心があるという、中本律子のグロテスク(生肉)と可愛らしさ(人形)が同居したインスタレーションについてもあてはまるようです。しかし、彼女の場合には触るという体験が重要です。他の多くの出品者と同様な、記憶への関心も見て取れます。
 最後に束芋ですが、台所を舞台に、痛みや内蔵感覚に訴える表現を用いるなどした、日本人や日本文化に関する社会批判を行っています。何か茶の間のテレビのワイドショーばりの、世間話に留まってしまう危うさも感じられますが、これは、自分が接点を持てる範囲で社会と関係する堅実さとも評価でき、本展の切り口としての「私フ 」の好例と考えられます。
 以上のような概略ですが、端的にこうだと断ずることはもはやできません。それでも、「私フ 」を手がかりに、8名の出品作家の仕事を総体的に関連づけえたように思います。最後になりますが、判然としない境遇にありながらも、それでも表現を追求しようとする若い世代の試みを、どうか暖かく見守っていただきたいと切に願います。

1999年度主任実行委員 森下明彦(メディアアーティスト/神戸芸術工科大学教員)




・泉依里

・小川しゅん一
・片岡健二
・国谷隆志
・束芋
・津上みゆき
・トミアサエ
・中本律子