レビュー

▶展覧会REVIEW

Exhibition as media 2013
蓮沼執太展「音的→神戸|soundlike 2」

会期:2013年11月2日(土)‒11月20日(水)12:00‒19:00 火曜日休館
会場:神戸アートビレッジセンター 1F/KAVC ギャラリー・1room、B1/KAVC シアター・スタジオ 3
出品作家:蓮沼執太
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DSC_5915.jpg撮影:福永一夫

『蓮沼執太は私たちを信頼している』

橋本 梓(国立国際美術館 研究員)

 蓮沼執太が取り組んでいるのは音楽である。確かに彼はこれまで何度か「展覧会」を開催してきたし、そこでの蓮沼の手つきに「アートっぽさ」を見出すことは難しくない。メディウムという点からみれば、蓮沼の作品を映像インスタレーション、ドローイング、彫刻と言うことだってできるのかもしれない。しかし、蓮沼がアサヒ・アートスクエア(AAS)や神戸アートビレッジセンター(KAVC)で取り組んだことは、彼がこれまでさまざまな場所で行なった楽曲制作やCDリリース/データ配信、演奏やパフォーマンスを通じて挑戦してきたことと本質的に変わりない。すなわち、所与の条件を受け止めることから自らの音楽を生むこと。与件として展覧会が与えられたなら、その展覧会という枠組みで「音楽をする」こと。間違っても、展覧会のマルチメディア化によって現代美術の領域を自己展開/拡大するというような、一見懐が深いように見えて貧しい言い分に奉仕することで、自らの音楽に「アート」という身分を授与せしめるためでは全くないのだ。たとえば、サッカー選手にスケートリンクでサッカーの試合をして欲しいと言ったら怒るだろうか。蓮沼執太ならそんな時、スケートリンクで遊ぶためのサッカーのルールを考え、やってみて、新しい可能性を発見し、サッカーの概念を押し広げ、皆を楽しませるだろう。今回蓮沼が展覧会というフォーマットの中で行なったのはまさにそういうことだった。そこには、(逆説的にも)美術か音楽かというようなジャンルにかかわらず優れた芸術に見出すことのできる小気味の良い跳躍と、それによって可能になる豊かさが横たわっている。
 そもそも展覧会とは、特定の場所に来た人に何かを提示するひとつの形式である(本やインターネットの中だけで成立する展覧会とか、会期中に作品が会場にない展覧会とか、ルール崩しのお話はひとまず措いておく)。舞台芸術やコンサート、映画との大きな違いは、鑑賞の始まりと終わりを鑑賞者が決められることだ。会期中であれば、いつどんな時間に来てもいいし、好きなだけ会場にいることが許される。この基本構造を踏まえて、よりローカルな条件が展覧会を支えている。たとえば作品がインストールされる場所、そこに関わる人、それを内包する街。明文化されるものとそうでないもの、可視的なものとそうでないもの。仔細に点検すれば限りなく挙げることのできるこうした条件は、作品を縛りもするし解放もする。展覧会が本来視覚的なプレゼンテーションを前提としていることを考えれば、展覧会を成立させるための諸条件が蓮沼の音楽の前にある種の「制限」として立ちはだかることは想像に難くない。急いで付け加えると、AASもKAVCもいわゆる美術館ではないので、視覚的なプレゼンテーションに向いているかと言われればそういうわけでも決してないという二重の難しさを孕んでいる。
 結果から言えば、蓮沼は二会場でそれぞれに与えられた条件に丁寧に応答していくことで、展覧会において自らの音楽を十二分に実現し、展開させた。まず、展覧会の基本的な枠組み――鑑賞者が鑑賞する時間の始めと終わりを自分で決めることができる――は、鑑賞者に能動的かつ自由に音楽を聴取させるという、もっともベーシックで重要な構造を可能とするものとして機能した。筆者がより時間をかけて鑑賞することができたKAVCを中心に語れば、その展覧会はAASでの展示から良い意味で切り離され、KAVCに寄り添っていた。たとえばAASという場所を掘り下げるようにして一年間続けたリサーチ・プロジェクト「スタディーズ」から生まれた作品はKAVCには持ち込まれず、代わりに約一週間の新開地滞在で集中的に制作した作品が会場のほぼ半分を占めた。近隣でのフィールド・レコーディングや、KAVC内のシルクスクリーン工房との協同作業、スタッフや関係者を巻き込んでの作品の録音などを含む新作は、神戸の鑑賞者がより親しみをもって蓮沼の作品に向き合うことを可能にするものだった。とりわけギャラリースペースで展開された《SINDEE (for comporser)》は、作曲家としての蓮沼のアイデアの豊かさ、それによってリアライズされた音、それを聴取させるための空間構成、さらには視覚的なプレゼンテーションのセンスも味わうことのできる佳作であった。またその制作過程に実現された軽快なコラボレーション(グラフィックスコアの作成だけでなく演奏にもKAVCスタッフを召喚し、木製の支持体作成や音響デザインも関西のクリエイターたちに依頼するなど)も、実に蓮沼らしい手つきだったと言えるだろう。また、シアタースペースにインストールされた《世界は僕らの手の中 ナイロビ編》《音の回転》《フィールドワーク》《コミューナル・ミュージック》は、暗くて小さなスペースの親密さを生かすようにそれぞれの作品がわざと少しずつ干渉しあうように配置され、その重なりが生み出す音楽を鑑賞者は楽しむことができた。
 展覧会にまつわるさまざまな条件をクリアした上で、蓮沼の音楽は蓮沼らしさを失わないどころか、ますますその強度を確かなものとしたように思う。それは自分の音楽はこうだと肩ひじを張ってマッチョに押し付けてくるものではなく、展示場の作品が与える印象はむしろカジュアルで、やわらかく優しく差し出される。こうして「展覧会」にまつわる諸条件を、音楽を生み、まとめ、展開させるための手がかりに鮮やかに変えてみせた蓮沼を、器用と言ってすませるのはあまりに残念だ。彼の作業は見えのために小手先で行っていることでは決してない。企画者、演奏者、エンジニア、あらゆるかたちで共同作業をする者、そして音楽を聴く全ての人について思いをめぐらし、携わった人すべてを信じてまず自ら力を尽すからこそ、それぞれのポテンシャルが十全に発揮される。このことは、筆者が蓮沼と共に作り上げる機会を得たコンサート「Music Today on Fluxus 蓮沼執太 vs 塩見允枝子」(国立国際美術館、2013年7月7日)を通じて痛感したことでもある。「ひとりで」ではなく「みんなで」つくるという姿勢の根底にはスタッフと鑑賞者への絶対的な信頼があり、複数の人間がかかわることによりパフォーマンスが掛け算されることをよく認識しているからだろう。蓮沼は本来音楽を鳴り響かせる場所ではない美術館で最善のパフォーマンスをするために、率先してあらゆる工夫をしつつ、携わる人々を十二分に生かすことで、彼の音楽を拡張してみせたのだ。
 音楽家である蓮沼執太は、展覧会全体を作曲(compose)しつつ自らもその中で演奏し、またそこにかかわる人々をプレイヤーとして絶対的に信頼して音楽を鳴り響かせ、鑑賞者に自由で豊かな聴取の体験を届ける。展覧会場で、誰かの小さな声に耳をそばだてるように、私たちは展示空間をそっと歩き足を止め、注意深く音に耳を傾け、目を遊ばせるだろう。観葉植物が生み出す視覚的なリズム、階段を降りる自分の足音、スクリーンに落ちる影、くつろぐ人の身じろぎや小さなお喋り。器楽音や声だけでなくそれが鳴る空間や沈黙、そして自分の存在でさえ音楽の一部になるような、そんな音楽の拡張が観る者に喜びとともに訪れる。私たちはどれだけの時間そこにいてもいい。滞在時間がすなわち音楽となる。鑑賞者は会場内を気の向くままに歩きまわり、自分だけの音楽体験が作られていく。展覧会の中で起こるすべてのことを、蓮沼はそっと音楽として差し出す。蓮沼執太が取り組んでいるのはやはり音楽である。そして蓮沼執太は私たちを信頼している。



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hajimeten_iikawa_.jpeg撮影:飯川雄大

Exhibition as media 2012
「ハジメテンのワンダフルハジメテンプル」

会期:2012年11月3日(土・祝)-12月2日(日)
会場:神戸アートビレッジセンター1F (ギャラリー、1room)
出品作家:ハジメテン(飯川雄大、梅佳代、金氏徹平、川島小鳥、小橋陽介、西光祐輔、パトリック・ツァイ)


『ハジメテンがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!』

中村悠介(雑誌『IN/SECTS』編集者)

 新開地での「ワンダフルハジメテンプル」は会場を寺にしてしまう試みである。それはカラフルというかカオスというか、まるで文化祭の前日準備が終わらないような。まず、そんな初々しい高揚感がワンダフル、であったと思う。
 あらためて彼らは写真家、彫刻家、画家の美術家7名のメンバーによって構成されている。当然その集合体によるテンプルであるから、作品中の大仏を、枯山水を、曼荼羅を、誰が制作したのか明確な境界はない。
 ということをわざわざ語るまでもないけれど、しかし彼らのボーダレスな共同制作は強調してし過ぎることはないだろう。なぜなら、その共同とは新開地そのものと、にも及ぶ試みだから。つまり行き当たりばったりで、そして突貫工事で…といえばお騒がせ集団、のように捉えられるかもしれない(事実否定はできないかもしれないが)。けれど、そんな360度の共同制作こそ、同時代的なローカルのつながりによるアクションであり、誠実な即興なのだと思う。そのプロセス、珍道中のフットワークが会場の隅々に、どころか、むき出しであることがハジメテンのらしさ、なのだと思う。
 もうひとつ、KAVCを訪れたものは畳に上がり、座布団に座ることになるのだけれど、それは参加型という名の半ば強要のインスタレーションとは違う。老若男女問わず自然に集う場所、その可能性としての寺、というのはどこまでも共同を発生させる装置、ハジメテンならではのオチである。実際オープニングでのトークショーは、まるでポップな法事のようでありました。
 さて、今回新たなメンバーが突発的に加わったことは、そんな横のつながりの共同をより加速させるように見えるが、これからどうなるのだろう。
 私の勝手なリクエストとして、今度KAVCに来る際はメンバーをあと1名増やし新開地に野球場を作ってほしい。彼らの対戦相手はもちろん我々観客だ。